あたりまえのふしぎ

「あたりまえ」って日常に溢れているけど、それって本当にいいんだっけ?って考えることの大切さを最近感じている。自分の感覚を鈍らないようにと意識していることをちょっとずつ書き留めていこう。

幸せな時間

仕事の忙しさとか、

日々の紛らわしさとか、

貧乏による虚しさとか、

予定通りにいかないことの不甲斐なさとか、

 

毎日いろんなことに追われているけど

 

でもそんな中で感じる幸せって

ほんとに些細な

でも確かなものだったりする。

 

私の中での絶対が

他の人の中でも絶対で、

確かに通じあってるって感じる感覚が

距離とか立場とか環境とかを通り越して、

すべてを包むような安心感に変わった。

その瞬間

いままでの不安が払拭されて、

 

根拠はないけど

これでいいって思った。

 

今までの失敗や後悔も、

今ではそれがあったからの今にかわり、

すべてを正当化できる今に感謝できる。

 

いつも新鮮な、矢印の向きを共に見て、

気持ちのいい場を共に楽しみながら進んでいきたい。

 

この気持ちが忘れたくなくて、

書いてみる。

大事にしたいこの感覚を。

素敵な出会い

今日は素敵な出会いがあった。

仕事の繋がりで希望したトレーニング。

たくさんの気付きと、まだまだだなと自分の足りなさを感じる時間となった。

 

世の中に影響を与える人って、

自分の夢を叶えた人なのかも。

 

私としてはとても有意義な時間だったけれど、

こんな私との時間なんて向こうからしたら

何になるんだろう。

そもそもプロボノもほんとに凄い活動だと思うし、それを必要としている私たちはどの程度の貢献力をもっているのだろうか。

 

私にしかできないもの、私でなきゃならないことなんて、特別ないかもしれないけれど、

やっぱり私がいいんだよと言われるような人でありたい。

 

その時あった人がみた自分が全て。

いつもは違うという言い訳は通用せず、

そのときの自分を常にベストの自分であるための努力をし続けないといけないと思う。

 

明日も早起きしよ。

 

あたりまえに『小窓』をのぞく

電車で皆が『小窓』をのぞく。

 

『小窓』

=スマホのことね。笑

 

 

あの小さい窓には大きな世界が広がっている。

 

 

 

あの人の手の中では

怪獣と戦える勇者になれたり、

 

あの人の手の中では

玉と玉が繋がって

光を放って消えていったり、

 

あの人の手の中には

何万冊もの本が収納されていたり、

 

あの人の手の中には…

 

 

 

便利な世の中になったなと感心する反面、

擬似的体験の多さに

本来の良さを感じにくくなっているなと

寂しさも感じる。

 

 

 簡単にできることによって

 

いいこともたくさんあるが、

 

簡単にはできないからこそ

 

得られるいいこともたくさんあるんだなー。

 

 

 

 

あぁーーー

 

山登りしたい。

 

 

 

 

 

 

もしも○○だったら…シリーズ


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もしも○○だったら…

 

誰しもが一度は考えたことがあることだと思うけど、当たり前にある毎日にちょっと疑問を持つと、偶然の積み重ねで人生できているとしみじみ感じてしまう。

 

 

 

『もしも私が超スーパー天才児としてこの世に生を受けていたなら…』

 

笑。

 

 

天才じゃないから想像つかない。笑

 

 

 

『もしも私が超スーパー美少女としてこの世に生を受けていたなら…』

 

 

 

 

 

 

残念ながら美女ではないので、わからん。笑

 

 

でもきっと

体感したことない嬉しさや、そうであるが故に感じてしまう悩みなどがあるのだろう。

幸せなのか、果たして不幸せなのか。

 

 

 

たまたま

いたって平凡な知能と、

平凡な容姿をもって産まれた私は

今まで結構幸せだった。

私が選んだドアを開けると、平凡だけど幸せな両親が待っていて、

出会ってきた友人たちもみんないい人たちだ。

 

 

人と人の交わりは

偶然の積み重ねで、

たまたまやった事や

たまたま行った所とか

その偶然によって、素晴らしい経験を共有できた仲間がいたと思う。

 

 

 

最近読んだ植島啓司さんの『偶然のチカラ』は、その「偶然」について、いろんな視点から書かれている。

神話を例にあげたり、ギャンブルでの確率の話や、夫婦の話が出てきたり…

 その中でどう自分の人生を歩んでいけばよいのか考えさせられる一冊であった。

できることならみんな幸せに生きたいはず。

偶然のようで必然のような一生を納得いくものにするなら、私は『計画的な偶然の積み重ね』をしていくことが、必然的に幸せになる方法なのかと思った。


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あたりまえに見える景色って?

我「ハムカツって美味しいよね。」

 

 

子「残酷〜!!」

 

 

我「なんで!?どこが!?」

 

 

 

子「だってハムスター食べちゃうんでしょう?」

 

 

我「は?」

 

 

 

子「最低〜!!」

 

 

先日あるこどもとの会話。あの私を見る若干引いた目を忘れられない。

 

(いやいや私だってさすがにハムスターは食べないから!!!)

 

大人からしたら当たり前のことも、人によっては衝撃的な事実となる(場合もある)。

 

 

 

日頃仕事でこどもたちと関わることが多い私は、こどもの目線に立たされて気付かされることがたくさんある。

 

例えば普段使っているテーブル。

大人の使用用途は「物を置く。」

 

こどもは「潜る。鉄棒みたいに登る。テーブルの裏に絵を描こうとする。・・・その他諸々」

 

 

 

ほんと天才。

 

 

 

確かに昔を思い出すと、

今では恐ろしくて絶対行きたくないところを冒険してみたりとか、

いやいや今の時代なら抜けなくなって年末の衝撃映像100的な番組に載るんじゃないかって思うような超絶狭いところ入って遊んだりとか、

変な虫、絶対いるでしょっていう気持ち悪いところ平気で踏み込んでみたりとか、

逆に今では何が楽しいんだろう・・・というような遊びを永遠にしていたりとか。

そんな時期が確かにあった。

 

 

 

ほんと天才。笑

 

 

 

今見えているものや聞いてることについて深く考える時間ってなかなか取れてないなーって思うけど、「いや待てよ!」と目線を変えることで気づけることってたくさんあると思う。

 

今の自分の「あたりまえ」が、

地球規模で考えたら絶対に非常識で、

それを感じて生活できないことがどれだけ鈍いことか

考えてみると、こわいね。

 

 

 

敏感な自分であり続けることをここに宣言しておくとしよう。