あたりまえのふしぎ

「あたりまえ」って日常に溢れているけど、それって本当にいいんだっけ?って考えることの大切さを最近感じている。自分の感覚を鈍らないようにと意識していることをちょっとずつ書き留めていこう。

あたりまえに見える景色って?

我「ハムカツって美味しいよね。」

 

 

子「残酷〜!!」

 

 

我「なんで!?どこが!?」

 

 

 

子「だってハムスター食べちゃうんでしょう?」

 

 

我「は?」

 

 

 

子「最低〜!!」

 

 

先日あるこどもとの会話。あの私を見る若干引いた目を忘れられない。

 

(いやいや私だってさすがにハムスターは食べないから!!!)

 

大人からしたら当たり前のことも、人によっては衝撃的な事実となる(場合もある)。

 

 

 

日頃仕事でこどもたちと関わることが多い私は、こどもの目線に立たされて気付かされることがたくさんある。

 

例えば普段使っているテーブル。

大人の使用用途は「物を置く。」

 

こどもは「潜る。鉄棒みたいに登る。テーブルの裏に絵を描こうとする。・・・その他諸々」

 

 

 

ほんと天才。

 

 

 

確かに昔を思い出すと、

今では恐ろしくて絶対行きたくないところを冒険してみたりとか、

いやいや今の時代なら抜けなくなって年末の衝撃映像100的な番組に載るんじゃないかって思うような超絶狭いところ入って遊んだりとか、

変な虫、絶対いるでしょっていう気持ち悪いところ平気で踏み込んでみたりとか、

逆に今では何が楽しいんだろう・・・というような遊びを永遠にしていたりとか。

そんな時期が確かにあった。

 

 

 

ほんと天才。笑

 

 

 

今見えているものや聞いてることについて深く考える時間ってなかなか取れてないなーって思うけど、「いや待てよ!」と目線を変えることで気づけることってたくさんあると思う。

 

今の自分の「あたりまえ」が、

地球規模で考えたら絶対に非常識で、

それを感じて生活できないことがどれだけ鈍いことか

考えてみると、こわいね。

 

 

 

敏感な自分であり続けることをここに宣言しておくとしよう。